私の母、金子は48歳の若さで脳溢血のため亡くなった。1955年(昭和30年)10月16日、私が小学校5年生、11歳の時のことであった。秋、つるべ落としの夕闇の中で搾乳をしていて強烈な脳溢血に襲われ、倒れた母は、そこが気持ち悪かったと見えて、しきりと首と肩に手をやった。3日後に亡くなるまで一度も意識が戻ることはなく、男3人、女3人の、6人の子供に別れの言葉もなかった。男4人女4人の、8人兄弟の長女として富士見町神戸の御射山神社の総代家に生まれた母は、若い時から兄弟の母代りを務め、頭のいいしっかり者で、上諏訪の女学校では最優秀の成績を収めたという。厳しいけれどもやさしさもあり、弟や妹から慕われていた。農家に嫁いで過酷な労働に追われていた母の楽しみは、年に一度お盆に実家に帰ることであった。お供供はたいがい末っ子の私、土産は米と下駄に決まっていた。自宅の原村八ッ手を歩いて出発、途中原村室内で粗末な小屋に一人住まいの人に声をかけ、心づけをやり、原山神社(御射山神社)にお参りし、ここでも神社に住みついている人に声をかけ、心づけをやる。実家に帰った母は、弟夫婦やその子供、妹たちに立てられて、毎日下にも置かない待遇を受けて、寝て暮らしていた。こうして農作業でたまった体の疲れを取った。塩辛や福神漬を樽で買って、切り身の塩魚が必ず付く、大家族の塩分の多い食事。どんなに疲れていても休むことのできない農家の主婦の仕事。血圧の上の数値が200に近い高血圧で「頭が痛い。気持ちが悪い」と思っても、この病気に対する無知もあって、休みも取らず、治療も受けなかった不幸。この母にこっぴどく叱られたことがある。それは「またカレーライスか」と食事に対する不満を私が口にした時のことである。過酷な労働の中で料理に割く時間が限られ、貧しさもあって毎日カレーライスしか食べさせてやれないことに忸怩たるものがあった母は我を忘れて怒り、「それならたべるな」と私の食事を取り上げた。このことがあって以降、母の気持ちや悲しみに理解行くようになり、その後私は食事に対する不満を一切口にしていない。母が身をもって示してくれた人生の教訓であったと深く感謝している。母の危篤を聞いて、学校を早退し、泣きながら家に向かって走る。真っ青な抜けるような秋空のもと、農家の庭には菊の花が咲き乱れ、裾野の村にはそよ吹く風もない午後であった。母の死は人生の早い時期に生とは何か、自然とは何かを考えさせ、実感させてくれた出来事であった。母にとってせめてもの慰めは若くして原村の婦人会の会長を務め、副会長以下を引き連れて研修で東京などを見て歩けたことであった。母が人生で輝く時間を持てたことである。
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