養蚕の種屋をやっていたこともあって、生家は木造の大建築で、間口13間、奥行き8間、総2階の、村一番といわれる大きな家であった。大屋根の屋根裏に入って見たときの驚きを今でも忘れない。抱きつけないような大きな材木が、曲がりをそのまま生かして組み合わされ、大蛇がのたうつように整然とうねっている様は壮観であった。曲がった大木をどうやってここまで持ち上げ組み合わせたのか、当時の大工の技量の高さに感嘆したものである。1階に上座敷と奥座敷、4部屋、台所、桑置き場2部屋、土間、トイレ(小便1、大便2)があり、2階には蚕室用に12部屋があった。上・奥座敷には床の間が付き、天井板は幅半間の欅の一枚板が使われていて、贅を極めていた。大屋根は鉄平石を銅で止めて葺かれていて、頑丈で長持ちするといわれていた。1000坪の敷地にこの建物に蔵1棟3個が付き、家畜小屋があった。夏は涼しく快適であるが、冬は隙間だらけの寒い家であった。家の周りにはリンゴ園が広がり、春は薄ピンクの花が咲いた。袋かけのシーズンには袋かけ専門の職人が2人入った。まだ熟していない青リンゴに塩を塗ってこっそり食べるのが子供たちの楽しみであった。庭には心字池があり、たくさんの鯉が遊弋していた。残飯や蚕のさなぎを食べて育った大鯉は、まるごとにてお客をやるときのメインのごちそうになった。池の周りには五葉松の大木と、更紗満天星の大木があり、一位の大木もあった。家の裏には竹藪があり、柏の大木があった。5月の節句にはこの若葉に餅を包んで柏餅を作った。この家は何回も何回も映画の撮影に使われた。何台ものトラックに分乗して、映画の撮影隊がわが家にやってきた。たくさんの人とともに機材が下され、据え付けられる。銀紙を張った反射板を持つ人、カメラを回す人、進行を管理する人、道具を持ち運ぶ人、出演者たち。私の眼は一番偉そうに全体を指揮している監督に釘付けになった。こうして出来上がった作品の一つが大庭秀雄監督の「唇に歌を持て、心に太陽を持て」である。また、大島渚監督が我が家を撮影に使いたいといって来たこともあったが、残念ながら屋根が茅葺ではないため実現はしなかった。父と大島監督が縁側で話している後ろ姿が思い出深い。私が、映画監督になりたいと早稲田大学の文学部芸術学部を志望した原点は、ここにある。しかし、早稲田の芸術学部には合格したが行かなかった。行っていれば吉永小百合と同級生に成れたのに、残念なことをした。この家は今での私の誇るべき家である。
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