南京にあった日本人女学校

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南京には終戦まで日本人女学校があった。
63年ぶりに訪ねてみると学校はそのまま残っていた。
学校を見学した直後に録画したビデオである。
(授業中であり、学校内は撮影できなかった)

母の両親は戦前から南京で商売をしており、母は南京で生まれた。
支那事変の間は長崎に疎開していたが、
日本軍が南京を陥落すると、
中国人の学校を接収して日本人学校にした。
この女学校もそのように作られた。
敗戦ですべてを置いて引き揚げた。
母は最期の卒業生の一人である。

母は疎開していて南京虐殺を知らなかった。
大人は当時何も語らなかった。
虐殺のことは戦後になって聞いた。
当時の抗日運動の恐怖は知っている。
女学校には毎日人力車に隠れて登下校していた。

ずっと南京を訪れる気になれないでいた。
しかし、中国は急速に変化しており、
昔の建物はどんどん取り壊されていると聞いた。
それで63年ぶりに訪ねることにした。

子供のときに覚えた中国語はいまだ健在だが、
自分が日本人であることを中国人に言うのはいまだに恐い。
でも、学校の守衛は優しく対応してくれた。

学校の玄関には歴史年表が彫ってあったが、
日本人女学校だった期間だけは空白になっていた。
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コメント数

4 個
baba ayaka
2022/02/07
堂山様、貴重な動画を投稿していただきありがとうございます。

私は戦時中の南京の日本居留民社会について調査しております。
『南京日本居留民誌』(1940年)に記載されていた、居留民会立小学校卒業生の名前を検索したところ、こちらの動画に辿り着きました。南京で暮らした日本人の方の証言はこれまでに聞いたことがなく、お母様の証言が残っていたことに驚いています。

一点お伺いしたい事があるのですが、戦時中に南京で暮らした日本人の方で、戦後に集会をしたり、冊子を出したりしたことはなかったでしょうか?南京でどのような暮らしをしていたのかについて知りたいのです。もし何か心当たりのある情報があれば、ご教授いただければ幸いです。
大地の子
2021/06/16
昭和6年生まれの私の母親も同じ女学校に通学していたそうです。
二学年下になると思います。
ある軍人が日本はもう負けるので祖母と母は危険なので帰国するように
内密に言って下さったそうです。
それで祖父を南京に残して終戦前に母と祖母は帰国できました。
祖父は南京の発電所の技師で中国人の部下もいたそうです。
祖父は終戦後技術指導でしばらく中国に抑留された後無事帰国できました。
南京大虐殺について祖父が中国人部下から聞いた話によると
川岸に中国人を並ばせて機関銃掃射をしたそうです。人数が多すぎて死体の処理が
できないので、撃ち殺して死体が川に流れていくようにしたそうです。
撃たれたふりをして川に飛び込んで助かった人もいたそうです。
日本敗戦確実を教えて下さった軍人の方には心から感謝しております。


堂山真一 撮影ボランティア
2011/11/04
水野様
doyama.shinichi@gmail.com へメールいただけませんでしょうか?
よろしくお願いいたします。
水野智仁
2011/11/04
動画大変興味深く拝見させていただきました。
実は昨年来、戦前期の中国大陸における日本人学校について関心を持ち、外務省記録等を中心に調べております。 今のところ、北京、南京、青島を目下の対象しておりまして、先日も外交史料館より南京日本人小学校関係の史料をCDにて入手いたしたところです。

いずれは上級学校についても調べていきたいと考えております。

御母堂様、南京の女学校にいらっしゃったということですが、女学校進学以前小学校の方にも御在籍でしたのでしょうか。

コメントではなく申し訳ございません。