Yoko Kaneko
メモリーシーカー
MEMORO「記憶の銀行」のコンセプトに賛同し、日本での立ち上げの時期からから参画しています。
2014年夏からは、飛騨高山MEMORO「記憶の銀行」プロジェクトをプロジェクトリーダーでとして始めました。現在、2ケ月に1度程度、飛騨高山の語り手の方々の貴重な「記憶」を記録しています。
2014年夏からは、飛騨高山MEMORO「記憶の銀行」プロジェクトをプロジェクトリーダーでとして始めました。現在、2ケ月に1度程度、飛騨高山の語り手の方々の貴重な「記憶」を記録しています。
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農林課での奮闘~米から野菜生産へ...
語り手 大道 英明 | 投稿 3009 日前
農林課に配属された時、日本の農政は大きな転換期を迎えていた。桑畑などを大規模な水田に変えるという農地造成を進めていたにもかかわらず、国の方針...
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なくならなかった「めでた」
語り手 大道 英明 | 投稿 3009 日前
飛騨高山には祝いの席で「めでた」という祝い唄を謡う風習がある。米を作ってはいけなくなるほど世の中が変わったので、きっと「めだた」も消えてしま...
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最初に配属された診療所
語り手 大道 英明 | 投稿 3009 日前
丹生川村役場で最初に配属されたのは診療所だった。当時、結核が流行っており、学校を建てるより診療所を建てる方が優先だった。事務ではなく、用務係...
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15歳で就職した丹生川村役場
語り手 大道 英明 | 投稿 3009 日前
中学を卒業した年、15歳で丹生川村役場に就職した。同級生80名のうち、高校に進学したのは1割の8名程で、あとは皆就職した。
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母の手伝いをした子供のころ
語り手 大道 英明 | 投稿 3009 日前
7人兄弟の次男に生まれ、子供のころはいつも母の手伝いをしていた。茶碗洗いから掃除から、おしめ替えから全部したが、苦労とは思わなかっつた。身体...
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丹生川村役場で働いていたころ
語り手 平塚 和子 | 投稿 3037 日前
第2子の出産の後、舅が病気になりしばらく介護をしていたが、舅の死後、友人からの紹介で丹生川村役場に就職した。
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